私は1951年に生まれ た。当時は当然のことながら、大陸の中国である中華人民共和国とは日中の国交 は無かった。当時日本とおつき合いのある中国とは中華民国、すなわち台湾だっ た。どんなルートであろうと、中国本土の品物は台湾を通じて日本に入ってきて いた。だが、蒋介石総統が中国国民党をひきいて台湾を席巻し、日本にとっての 中国は台湾でしかなかった。
 大学は歴史学を専攻した。東洋史学、しかも中国古代、北方民族を選んだが、 ただ単にスウェン・ヘディンの「彷徨える湖」を高校時代に読んで面白かっただ けのでちょっと齧ってみようかなてなことかもしれない。結局すべて文献に寄る 憶測からでしか、卒業論文は書けなかった。現地調査と云うのは夢の又夢だっ た。当時はまだ田中角栄が周恩来と会っていなかったのだ。
 日中国交が回復してからも中国に行く機会が無かった訳では無い。シルクロー ド横断取材みたいなオーダーが来た事もあるが、顎足はみてくれるとはいうもの の、ギャラがなしではとてもいけなかった。2ケ月ノーギャラで事務所を空ける とプラマイ200万のマイナスはとてもやってられなくて、仕事の都合上断った。
 1996年が中国に返還される一年前に香港に行った。ハッキリいって中国では無 かった。香港は香港だった。そういう意味では私は未だに中国と云う国を知らな い。
 ところが、やっと中国にいく機会がやってきた、私が写真のお手伝い をした事で、中国に出店することになった知人の招待で、深釧(しんせん)に行く 事になった。念願かなってと云う感じではないのだけれど、50年以上縁のなかっ た世界にやっと行ける事になった。中国人は友だち、知人、会社時代の上司、中 華料理屋の大将やおかみさんなどいっぱいおつき合いはあったんだけれど、不思 議。
 知人から御招待の連絡のあった日、蒋介石の妻、宋美麗さんがニューヨークで 亡くなった。新聞では106歳と報じられていたが、実年齢はわからないそうで ある。「宋家の三姉妹」はすべてこの世の人ではなくなってしまった。もちろん わたしの中国行きとは、なんの関連も無い。

 写真は中国も宋家も蒋介石も全く関係のない「ミ ロのビーナスのお尻」さすが世界の至宝。今に もするっと落ちそうな着衣の表現は素晴らしい。

2003年10月29日「初めての国」