「ヴォイスの客」はらすすのジャズよもやま話
連載第31回 前橋の2軒のジャズ喫茶

 今、僕の手許に2册の思い出深い本があります。表紙を左写真に示しますが、そ
の2冊の本とは季刊ジャズ批評別冊の「ジャズ日本列島」というタイトルの本の昭
和51年度版と昭和61年度版なのです。タイトル通り日本中のジャズ喫茶を紹介すると
いう内容の本ですが、思い返せば僕はこの2冊の本には一体どの位お世話になった事
でしょうか?
 多くのジャズファンがそうであるように、僕も御多分に漏れずジャズ喫茶が大好き
でした。従って、高校生〜大学生の頃にはジャズ好きの友達と一緒にどこか遠くの地
方へ旅行に行った際などには、観光地は二の次にしてまずはその御当地のジャズ喫茶
を探すところから僕たちの旅は始まるというのがお決まりのパターンでした。当時は
少し大きな街にはジャズ喫茶の2〜3軒はあるのが当たり前でしたし、またある意味
ではジャズ喫茶はその街の文化の象徴でしたので地元の若者に尋ねると結構教えても
らえたりもしたのですが、なかなか見つからない場合にはこの本が僕達にとってのバ
イブルだった訳なのです。
 という次第で、知らない街に出かけるという事はとても楽しい出来事ですが、僕は
去る5月に出張で群馬県の前橋市に行くという機会に恵まれました。もちろん前橋に
行くのは生まれて初めてだったのですが、出発に際して古い「ジャズ日本列島」を見
ると、前橋市には「木馬」と「Down Beat」という老舗の2軒のジャズ喫茶があると
の事でした。但し、“これらのお店ももうとっくに潰れているんだろうな”と半ば諦
めながらインターネットで検索したところ、驚くなかれ!この2軒のジャズ喫茶はい
ずれも現在なおちゃんと健在でした。この事を知って僕は俄然出張が楽しみになり、
いそいそとして前橋の街へと出向く事になりました。
 3日間の前橋市滞在中に何とか仕事をやりくりして、寸暇を惜しんでこの2軒のジャ
ズ喫茶を訪れましたが、両店はきわめて対照的なスタイルで営業を続けておられまし
た。まず最初に「木馬」を訪れましたが、同店は1966年開店という長い歴史のあるお
店ですが、約6年前に市の中心部から郊外へ移転されたとの事であり、採光の良い大
きな窓のある外装やフローリング張りの床などとてもお洒落で瀟洒な喫茶店という第
一印象でした。しかし店内にはアルテックのスピーカーやマッキントッシュの管球ア
ンプが居座っており、ジャズに対するこだわりが充分に感じ取れる雰囲気を漂わせて
いました。マスターの根岸さんは“移転に際して半ばリタイアしたような形になり、
レコードも以前よりも半分程度に減らしてしまいました”とやや謙遜気味にお話され
ましたが、なかなかどうして「マスターのお薦めの200枚のレコード」なるリストを
編纂されたりと未だジャズに対する情熱冷めやらぬといった印象でした。当日も、マ
スターのお薦めのレコードの中からCannonball Adderley(!)の加わったVerveのJATP
盤やCharlie ChristianとLester Youngとが共演したJazz Archive盤など今までには
見た事もないような珍しいレコードを聴かせて頂き、感激もひとしお状態で後ろ髪を
引かれる思いで店を後にしました。
 一方、その翌日に訪れた「Down Beat」は市の中心部に存在しており、店内は1974
年の開店当時から恐らくほとんど変わっていないであろう、僕達に懐かしさを感じさ
せてくれるジャズ喫茶の形態をとどめたものでした。30年くらい前のジャズ喫茶は店
内は薄暗くおまけに会話は厳禁というのが当たり前でしたが、ジャズファンという
“同志”の秘密結社に行ったような気分で、初めて赴いた店でも何となく親近感が得
られるという一種独特の雰囲気がありましたが、この店に一歩足を踏み入れた途端に
僕は本当に久し振りにそういった思いが蘇ってくるのを実感してしまいました。マス
ターの諸橋さんは以前はプロのベーシストで、現在もピアノ・ドラム・ギターなど多
くの楽器を操られるとの事であり、店内でのライブのビデオを見せて頂き多才な方と
お見受けしました。“普段は客がほとんど来ないんですよ”と苦笑しておられました
が、毎週月曜日のマスターバンドのライブデーと隔週金曜日のジャムセッションデー
には多くの常連さんが集まって賑わっている様です。
 前橋の街にも大分以前から不況の嵐が押し寄せているようで、「Down Beat」があ
る市の中心部ではかなりの店がシャッターがおりたままの状態であり、一抹の寂しさ
が感じられました。しかし、何となく街全体が僕が子供だった昭和30年代にタイムス
リップしたかのような懐かしい印象を与えるものであり、心を魅了された2軒のジャ
ズ喫茶のせいもあって、僕はやや去り難い気持ちを感じつつ前橋の街を後にしたので
した。
 ではまた来月、皆様どうぞ梅雨のうっとおしさに負けずに元気でお過ごし下さい。
                        (2004年6月10 日 記)